LOGIN真琴がキッチンから戻ってきた時、悠斗はソファに座っていた。
テレビでは、夕暮れの海辺の町が映っている。 古い喫茶店の窓から、海が見えるらしい。 真琴は湯呑みを持って、ソファの端に腰を下ろした。 以前なら、もっと近くに座っていた気がする。 肩が触れるくらいの距離に。 けれど今は、クッションひとつ分、間が空いている。 それが偶然なのか、真琴が選んだ距離なのか、悠斗には分からなかった。 「こういう場所、好きなの?」 悠斗はテレビを見ながら聞いた。 真琴は少しだけ考えた。 「うん。好きかも」 「海?」 「海もだけど、古い喫茶店とか、知らない町を歩く感じとか」二階へ上がる階段は、前に来た時と同じだった。 けれど、今日は少しだけ違って見える。 白い壁に貼られた小さな案内。 階段の途中に置かれた、展示名の書かれた紙。『小さな器と暮らしの写真展』 その文字を見ながら一段ずつ上がる。 胸は少し速く鳴っていた。 朝倉さんに会えるかもしれない。 それは、確かにある。 でも、それだけではない。 器を見る。 写真を見る。 自分の生活の中にあるものを、少し違う角度から見てみる。 今日はそのために来た。 そう思い直すと、足元が少し落ち着いた。◇◇◇◇ 展示室に入ると、前回とは空気が少し違っていた。 白い壁に写真が並び、その下や横に、小さな器が置かれている。 木の台。 淡い布。 湯のみ。 小皿。 深い鉢。 どれも、飾り物というより、誰かの生活の中から少しだけ持ってこられたように見えた。 受付にいた書店員さんが、私に気づいて微笑んだ。「いらっしゃいませ」「こんにちは」「どうぞ、ごゆっくり」 私は軽く頭を下げて、最初の展示へ向かった。 そこには、朝のテーブルを写した写真があった。 窓から光が入り、白い皿にトーストがのっている。 隣には小さなカップ。 テーブルの端に、読みかけの本。 特別な料理ではない。 豪華な朝食でもない。 でも、誰かがちゃんと朝を始めようとしている写真だった。 横には、写真に写っているものと同じらしい小さな白い皿が置かれていた。 手作りなのか、縁が少しだけ揺れている。 私はその皿をじっと見た。 完璧な丸ではない。 でも、そこがいいと思った。 毎日使うものが、少しだけ不揃いでいい
展示の日の朝、私は少し早く目が覚めた。 カーテンの向こうが明るい。 薄い青の布を開けると、柔らかい光が部屋に入ってきた。 窓辺には水色の花瓶。 淡いオレンジの花は少ししおれかけていたけれど、まだきれいだった。 その隣にはクラゲ。 いつもの景色。 でも今日は、少しだけ特別に見える。 私は花瓶の水を替え、茎の先を整えた。 それから、丸いテーブルに朝食を並べる。 トースト。 ヨーグルト。 目玉焼き。 グレーのマグカップに紅茶。 卵の焼き加減は、前より少し上手くなっている。 黄身は真ん中ではないけれど、焦げていない。 私はそれを見て、小さく笑った。 少しずつ上手くなる。 料理も。 生活も。 楽しみにすることも。 急に完璧にならなくていい。 そう思いながら手を合わせた。「いただきます」◇◇◇◇ 朝食のあと、私は部屋を軽く片づけた。 昨日のうちに選んでおいた服をハンガーから外す。 淡いグレーのブラウス。 紺のスカート。 小さなイヤリング。 鏡の前で着替えると、胸の奥が少し落ち着かなくなった。 変ではないと思う。 でも、それを誰かに確認したくなる気持ちが少しだけ顔を出す。 似合っているかな。 派手ではないかな。 頑張りすぎて見えないかな。 そこまで考えて、私は鏡の中の自分に向かって小さく首を振った。 今日は、誰かに評価してもらうための服ではない。 私がこの服で行きたいと思った。 それでいい。 私はイヤリングをつけた。 小さな光が耳元で揺れる。 それだけで、顔が少し明るく見えた。 スマホを手に取る。
展示の日が近づくにつれて、私は少しだけそわそわしていた。 仕事をしている時はいつも通りなのに、ふとした瞬間に思い出す。 器と写真展。 書店の二階。 朝倉さんの名前。 水色の花瓶を買った日にもらったチラシ。 それはノートに挟んである。 何度も見る必要はないのに、夜になるとつい開いてしまう。 開催日も、時間も、もう覚えている。 それでも確認したくなる。 そういう自分が少し恥ずかしくて、でも嫌ではなかった。 私は丸いテーブルに肘をつき、ノートの間からチラシを取り出した。 白地に、器と光の写真。 派手ではない。 でも、静かに目を引く。 暮らしの中にあるものを、ちゃんと見ようとしている写真だと思った。 朝倉さんの撮るものは、そういう感じがする。 通り過ぎてしまいそうなものを、無理に飾らずに見せてくれる。 私はチラシの端を指でなぞった。 楽しみにしている。 その言葉を、心の中で言ってみる。 前なら、すぐに打ち消していたかもしれない。 楽しみにしすぎると、期待しているみたいで恥ずかしい。 誰かに会えるかもしれないことを嬉しいと思うのは、まだ早い。 そうやって、自分の気持ちに先回りして蓋をしていた。 でも今は、少し違う。 楽しみなら、楽しみでいい。 会えたら嬉しいなら、嬉しいでいい。 その気持ちが誰かを困らせるわけではない。 私が私の中に持っているだけなら、誰の負担にもならない。◇ 翌日の昼休み、森下さんが私の席に来た。「藤崎さん、今週末ですよね」「何が?」 聞き返してから、少しだけ目をそらした。 森下さんはにこっと笑う。「展示です」「あ……うん」「
来月の展示まで、まだ少し日があった。 それでも私は、時々カレンダーを開いて予定を確認していた。『器と写真展』 その文字を見るたびに、胸の中に小さな灯りがともる。 誰かとの約束ではない。 朝倉さんと会う約束をしたわけでもない。 けれど、私が楽しみにしている予定だった。 そのことが、今は大切だった。 以前の私は、予定を入れる時、まず誰かの都合を考えていた。 悠斗の帰宅時間。 食事の準備。 週末の買い物。 洗濯のタイミング。 それらを避けるように、自分の予定を端へ寄せていた。 行きたい場所があっても、あとでいいと思った。 読みたい本があっても、時間ができたらと思った。 その「あとで」は、なかなか来なかった。 今は違う。 私はカレンダーに、自分のための予定を入れる。 書店。 喫茶店。 森下さんが来る日。 花瓶を探す日。 そして、器と写真展。 どれも小さな予定だけれど、私の生活を少しずつ前へ動かしている。◇ 仕事帰り、私は書店に寄った。 展示までまだ日があるせいか、掲示板のチラシは前と同じ場所に貼られていた。 私はその前で足を止める。『小さな器と暮らしの写真展』 白地に、淡い影の落ちた器の写真。 テーブルの端。 湯気の立つカップ。 窓から入る光。 朝倉さんの写真なのか、器の作家さんの写真なのか、そこまでは分からない。 でも、そのチラシを見ると、自分の丸いテーブルを思い出した。 白い器。 欠けたグレーのマグカップ。 木のトレイ。 水色の花瓶。 ひとつひとつを選ぶことが、最近の私には少し楽しい。 器なんて、使えればいいと思ってい
月曜日の昼休み、私は佐伯さんと千尋に囲まれていた。 いつものカフェの窓際席。 私の前には紅茶。 佐伯さんの前にはアイスコーヒー。 千尋の前には、なぜか大きめのサンドイッチがある。「で、花瓶監査見習いの報告は?」 佐伯さんが開口一番に言った。 私は思わず笑った。「本当に聞くんですね」「当たり前でしょ。こちらは本部だから」「本部だったんですか」「知らないうちに組織化してる」 千尋がサンドイッチを持ったまま真顔で頷いた。「段ボール王国の文化財保護部門も兼任しております」「誰が任命したの」「王国の空気」「雑」 私が笑うと、佐伯さんも少し口元を緩めた。「森下ちゃん、どうだった?」「すごく喜んでくれました」「部屋を?」「はい。花瓶も、カーテンも、クラゲも」「クラゲも監査対象なの?」 千尋が興味津々で身を乗り出す。「森下さんは、クラゲちゃんって呼んでました」「昇格してる」「何に?」「住民票を得た」「クラゲに住民票」 くだらない話なのに、胸が軽くなる。 私は紅茶を一口飲んだ。 月曜日の昼休み。 仕事の合間。 それなのに、私の部屋の話をしている。 誰かの帰りを待っていた頃には、こんなふうに自分の生活を外へ話す時間があまりなかった。 話すことは、悠斗のことや家の段取りや、仕事の進捗ばかりだった気がする。 今は違う。 私の部屋に花瓶がある。 友人が来た。 それを、こうして話せる。◇◇◇◇「森下さんに言われたんです」 私はカップを置いた。「全部ちゃんとやろうとしなくていいって、前に私が言った言葉が、今の私に
森下さんが帰ったあとの部屋は、少しだけ違って見えた。 カップを洗って、皿を拭いて、木のトレイを棚に戻す。 テーブルの上には、森下さんが持ってきてくれた焼き菓子の残りが小さな袋に入っている。 窓辺には水色の花瓶。 淡いオレンジの花。 その隣のクラゲ。 いつもの景色なのに、そこに誰かの声が残っている気がした。 藤崎さんのお部屋です。 ちゃんと好きなものを置いてる感じ。 自分のことをちゃんと好きにしようとしてる感じ。 森下さんの言葉を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。 私は濡れた手をタオルで拭き、二脚目の椅子を見た。 さっきまで森下さんが座っていた椅子。 千尋が座った時とは、また違う余韻がある。 千尋は笑い声と勢いを置いていった。 森下さんは、部屋の中にある小さなものをひとつずつ見つけてくれた。 同じ椅子なのに、座る人によって残るものが違う。 それが、少し不思議で、少し嬉しかった。◇◇◇◇ 私は焼き菓子の袋を手に取った。 森下さんは「気を遣いすぎない量にしました」と言っていた。 その言葉の通り、小さな詰め合わせだった。 多すぎず、少なすぎず、今日食べきれなくても負担にならないくらい。 私は袋の口を折り直して、棚の上に置いた。 明日の朝、紅茶と一緒に食べよう。 そう思う。 誰かが持ってきてくれたものを、翌日の自分の楽しみにする。 以前の私は、来客のあとに残ったものを「片づけなければいけないもの」として見ていた気がする。 洗い物。 ゴミ。 余った食べ物。 乱れたクッション。 でも今は、それらが全部、誰かが来てくれた証拠のように見えた。 もちろん片づける。 そのままにはしない。 でも、急いで全部を消さなくてもいい。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。